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2014/01/29

盲目的な評価と引っ張り上げられるということ

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インフルエンサーによる効果については昔から色々と思うところがある。

つい先日、自分の写真を某所で、よいストリートショットだね、と、取り上げてくれた方がいたんだけど、そちらにはみるみるうちに評価が付いてくんですよ。

おいら自身がほとんどその取り上げてくれてた「場」に居ないので、よくはわからないのだけど、その方はその「場」ではアクティブなアマチュア写真家さんのようで、プチインフルエンサーな方だったようです。

そういうコトはちょこちょこあるんだけど、この方は気を使ってか、

「おれの写真じゃないよ、この人のだよ、コメントしたかったらそっちにね」

と、おいらの元投稿へのリンク付きで、自身のポストはコメント欄もわざわざ閉じてたので、そちらでの反応は所謂 fav 的なものの数以外は窺い知れない。

で、わざわざ紹介してくれてても、こちらにほとんど反応はないのですよね。面白いくらい。 fav の数だってあちらの方が倍はいってるw

や、ちがうちがう、自分トコで反応されないコト自体にヘソ曲げてるワケじゃないんですよ。

コンテンツが、延々流しそうめんの如く湧き出てくるタイムラインを持つソーシャルなコミュニティでは、そのコミュニティが成熟していけばいくほど、インフルエンサーであるとか、トレンドリーダーであるとか、ご意見番みたいな人気ユーザーが現われる。

「この人のピックアップするものは良質なものが多い」「この人の投稿さえ見とけば外さない」という他力本願な質の担保だ。

インフルエンサーにならなかった、大半の一般的なユーザーは、個々が「信頼がおける」と思っているインフルエンサーの拾い上げたコンテンツを、大きな口を開けて消費する。

でもそれだけになってしまうのだ。自ら新たな何かを探そうとはしなくなる。探すとしたらせいぜい、新しいインフルエンサーだ。

が故に、インフルエンサーが「反応は元の作り手へ」と、ワンクリックで辿れるソースをわざわざ入れても、余程でなければそちらまでは動かない。進言とは裏腹に淡々とインフルエンサーの投稿に fav だけが溜まっていく。

インフルエンサーは、新しきナニカとナニカの橋渡しにはなりえないのかもしれない。大抵の人にとっては、自分のタイムラインの先まで移動してまで見たいものなんて、ほとんどないんだと思う。

実は、おいらは、もう何年も前から、 Tumblr についてもその傾向がある気がしてて、メインのダッシュボードは、 Stylish で投稿者のアイコンや名前やリブログ数を全部消して使ってる。

おいらはココロが弱っちいので、そういった余計な付帯情報に引きずられて、リブログの手を止めたり動かしたりしてしまう場合がある、という感覚がどうしても拭えなかったのだ。それらが見えてる限り。

人気リブロガーとかインフルエンサーとかリブログ数とか馴染みのユーザーとか好きなユーザーとかナントカカントカ、そういう「人」に引きずられないで、自分が素でいいと感じる「モノ」が何なのかを知りたかったのだ。

ひとしきりリブログしてから、投稿者の付帯情報の消えてない個人のダッシュボードを見る。5桁リブログなコンテンツも時にはあるが、意外と2桁台が多かったりして、改めて己の偏りを感じつつ、そこで始めて目にしたリブログ元ユーザーのアイコンを見ていくことで「あぁ、おいらの好みとよく被るのはこの人か」というのが浮かび上がる。これが面白いのだ。

で、たいそう気に入ったコンテンツは、更に元ソースまで辿る。最近はそこまで余裕を持って Tumblr やるコトも減ってきたけど。

そう、決して、反応されなかった当事者が自分だからこんなコトを言ってる、というワケではないのだ。おいら自身はどちらかというと、執拗に元ソースを掘り出したいタイプで、ソーシャル何某はあくまで出会いの場にしておきたいのだ。

時にはそれだけでも楽しいとは思うけど、常に誰かのお仕着せばかりを受けとるばっかり、だなんてつまんなくないのかな。

ひとつめはそんな感じ。

そしてもうひとつは、もうちょっといやらしい「からくり」みたいなトコについて思うあれこれ。

多分そういうインフルエンサーな人々に着目され続けられれば、引っ張り上げられる確率もあがり、よきコンテンツの作り手としての認知と担保を得るコトは意外と容易にできる気がする。

引っ張り上げてくれる可能性のある人たちがいる所で、マメに作品を公開して、アピール続けて、コミュニケーションを欠かさずにいれば、インフルエンサー経由でその他の人たちにも、効率よく認知は広がるんだろう。

で、ある程度認められてしまえば、その後は、ブレた足の裏をアップしただけでも評価されるんだろう。信頼担保に基づいた、盲目的な評価。

実際のところ、コミュニケーション能力なんてなくても、本当に実力があって熱意がある人はしっかり拾われる。それは目の当たりにしてる。

でも、ちょっと実力が至らなくても、コミュニケーション能力が高いと、それはそれだけで大きなアドバンテージとなる。それも目の当たりにしてる。

なんかそんな図式が見えてしまって、最近は頑張っても頑張らなくても、どうせ大半は後者だよね、みたいな斜に構えた感覚を持ってしまって、なんかダメな心持ちになってるんですよね。あぁ、ココロが汚れっちまったってコトかしら。

ダメだからやらない……ってやってから言えよ、って言われそうですね。けど、おいら自身がソーシャル何某黎明期から、色々な場面で、純粋におもしろいから、という理由だけで人よりちょっと熱心にやってただけで、気づいたらインフルエンサーもどきという認知をされていた、みたいなコトはなかったわけではないので、何もやらずで判断下してるワケではないと思います。

実際、ここまでソーシャルネットワーク全般に対しての熱が下がりきる直前に出来た、ググれタスあたりだと、馬鹿みたいにフォロワ数は稼いじゃってるんです。虚しいまでに数だけなんですけどね、おかしな話。

元々おいらが手広く居着いてた、別のソーシャルネットワークからの移動ユーザーが多かったのもありますが、黎明期にアクティブであった、というのは替え難いコトなのかもしれません。

ささやかな自己主張をほんの少ししてたら、「フォローにお薦めの写真撮る人リスト」みたいないくつかの記事に載ってしまったり。そうなったら、こちらがモチベーションなくして幽霊部員になってたってお構いなしにフォロワは増え続けるんですよ。

で、もう長いことろくすっぽやってないでしょ? でも、稼いでしまったフォロワ数だけが担保になってるのか、未だに日々、サークルに追加されてるんですよ。

誰もタイムラインなんか見てないんでしょうね。ググれタスはどんぶりフォローも出来る仕組みがあるしな。きちんとチェックした上でおいらを追加するのをやめた人は可視化されないので比率はわかりませんが。

要はそういうコトの繰り返しなんだと思うんですよね。実力以外が多分に加味された状態で「人気取り」になりたいかっていうと、今のところはあまりそうでもないみたい。

どうなんだろうな、こんだけ書いたものの、やっぱり難癖つけて評価から逃げようとしてる、要は自信のなさの裏返しなのかな。

強いて言ったら、自信のなさというよりも、ソコに左右されて、作品に余計な精神的ノイズが入るのが煩わしい、というのはありそうだ。

でも、どんな手を使ってでも、沢山の人に見てもらいたい、っていう心理の方が、本来は正しい欲望なのかもしれない。

ていうか、ひっそりでいいから、もうちょっと出してこうぜ…w