Random flickr of mine

2022/11 移転しますた。 https://140.browneyes.in/

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2014/01/31

チャレンジングなヒトって、それだけですごいよなぁ

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なんか最近喋り(書き)すぎてる気がする。なんだろうね、書くと止まらない。でも、書けば書くほど底の浅さが出る一方なので情けない。

まいっか。

世間に対して馬脚を現わすのはどうでもよいのだけれど、書いて公開する、という行為が目的になってしまって、思考が今ひとつついてきておらず、結果、考えてたはずの方角から明後日の方を向いた、薄めたオレンジジュースみたいな文字の羅列に成り下がってるのが気に食わない。

とはいえ、それも含めて過程を残してくのは、それはそれで必要か。

これでも文章は、以前に比べてダイエット出来るようになった気はする(当社比)。まだまだだけどな!


写真家ではないヒトが、自分のやった世界一周の旅写真を写真集として出す、みたいなチャレンジをしてるみたいだね。

既存のマーケットを無視したマーケット作りの試みは、どの立場のプレイヤーかに依らず、既存の世界に居る人たちには、なかなか出来ないチャレンジなのかもしれないなぁ、って思ってる。

しがらみ然り、既存のノウハウによる余計な知恵然りで。

余計な知恵って言うと語弊があるが、知恵を持ってるが故に、頭でっかちになってしまいがちな面は拭えない。

そういった知恵ありきで、上手に逆手に取って、既存のマーケットをぶち壊すような既存の世界のヒトが居てもいい気はするんだけどね、すっごい荷が重そうだし、みんな自分のコトで精一杯だろうし、なかなかね。既存世界に居たって、余裕持って暮らしてるヒトなんて多くはないんだと思う。

いずれにしても、チャレンジングなヒトって、それだけですごいよなぁ。

やってる内容が個人的に好きか嫌いかは別の話だとは思ってるし、成功するのか失敗するのか、ナニカの波紋になったりして第三の道に繋がるのか、全く予想がつかないのと、あとは、「こうあって欲しい」みたいな、明確に期待する方向性があるわけではないのだけど、ちょっと着目はしてるかも。

2014/01/30

つい消しをみた~本物はどっちだ

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普段はついった眺めるのに TweetDeck を使ってて、大抵は各種画面の後ろに置いている。

しっかり見てる時は、いくつかのリストや検索キーワードの TL が複数並んでるウィンドウを眺めるのだが、他のコトをしてて、他のウィンドウの後ろに置きっ放しの時は、一番端っこに配置されてる、リアルタイムストリームな Home だけがチラリと垣間見れる。

垣間見れる Home の TL は、フォロワ数が多いコトもあって、常に下に下にと人々の投稿が流れ続けているのだが、時折、目の端で、ちょっと流れのリズムが崩れる時があって、うっかり視線を持ってかれる。そんなコトが意外とちょくちょく起きるのだ。

どうやらいわゆる、つい消しを見た!というヤツらしい。その影響で、つい消しされたポストの下にあったポストたちが、通常の流れに逆らって一斉に1ポスト分、上に上がるのだ。

その動きはほんの一瞬なのだけど、↓↓↓↓↑↓という動きは、着目してなくても……というか、むしろ、視線の中心にないくらいの時に最も目を引くのだ。

何が書かれてたかまでは見えなくても、どんなアイコンのポストが引っ込んだかは記憶に残る。

ついったなんてそれぞれ自分ルールで投稿してるから、ホントに多様な使い方がある。

個々のポストを、自分のためのログと捉えて、きちっと推敲していて、投稿した後で間違いに気づいて直すヒトもいる。そういうヒトはつい消しをしても、修正版の同じ内容を改めて投稿してたりする。

逆に誤変換上等で書き散らかすヒトもいる。在りし日の配偶者ついったは誤変換がひどすぎて、時折何を言ってるのかホントにわからないコトもあった。

一旦言いたいことを吐き出すだけ吐き出したら、一連のポストを消してしまうヒトもいる。投稿単位じゃなくて、ひとつのアカウントや複数のアカウントで、気まぐれに全投稿を消去してリセットしてしまうヒトもいる。

だから何が正解っていうのは全然ない。

個人的には、 bio にずっと載せてる通り、基本は独白散文のつもりでいる。で、「手からのオーラル」みたいな感覚で使ってる。なので、基本的につい消しはしない。一旦クチから発してしまった言葉って引っ込められない。

いくら機能として削除可能であっても、オーラル代わりの文字である限り、発してしまった後に、なかったことには自分自身が出来ない感じがしてる。

あと、現実問題、ついったのつぶやきをそのまま自動で方々に流してたので、各所削除して回るってのは非現実的だったし、全部消しきれない=消した記録がどこかに差分として残ってしまうので、無駄だと思ってたんだな。

記憶してるだけでは2回だけやったかな、つい消し。

ひとつは、 DM のつもりでメアドを表に流出してまった時w もうひとつは何だったかきちんと記憶してないけど、明らかに間違った情報を投稿してしまって、以降に誰かが見かけて鵜呑みにしてしまってはシビアによろしくないなって思うレベルだったんだろう。

おいらのついったなんて、間違った知識のポストや先走りポストが平常運転みたいなもんなんだけどねw 自分の信頼度が下がったり、自分の馬鹿晒す程度で、他に大きな影響ないのはそのまま放置。

手からのオーラルってヘンなのかな。アタマの中で考えてるコトをクチで説明するのはむしろ、苦手意識あるので、文字でちゃちゃっと投げつけるついったの方がおいらには結構しっくりくるんですよね。

アウトプットデバイスがクチじゃなくて、ひと昔前なら筆記、イマドキならタイピングの方がラクなヒトって、一定数いると思うんですが。

そういう意味で、実物のおいらと話すより、ついったで喋ってるおいらの方が、素の本物に近い気がしてる。勿論、ネットには現実世界のおいらがしている行動の全てがあるわけではないけれど。

2014/01/29

盲目的な評価と引っ張り上げられるということ

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インフルエンサーによる効果については昔から色々と思うところがある。

つい先日、自分の写真を某所で、よいストリートショットだね、と、取り上げてくれた方がいたんだけど、そちらにはみるみるうちに評価が付いてくんですよ。

おいら自身がほとんどその取り上げてくれてた「場」に居ないので、よくはわからないのだけど、その方はその「場」ではアクティブなアマチュア写真家さんのようで、プチインフルエンサーな方だったようです。

そういうコトはちょこちょこあるんだけど、この方は気を使ってか、

「おれの写真じゃないよ、この人のだよ、コメントしたかったらそっちにね」

と、おいらの元投稿へのリンク付きで、自身のポストはコメント欄もわざわざ閉じてたので、そちらでの反応は所謂 fav 的なものの数以外は窺い知れない。

で、わざわざ紹介してくれてても、こちらにほとんど反応はないのですよね。面白いくらい。 fav の数だってあちらの方が倍はいってるw

や、ちがうちがう、自分トコで反応されないコト自体にヘソ曲げてるワケじゃないんですよ。

コンテンツが、延々流しそうめんの如く湧き出てくるタイムラインを持つソーシャルなコミュニティでは、そのコミュニティが成熟していけばいくほど、インフルエンサーであるとか、トレンドリーダーであるとか、ご意見番みたいな人気ユーザーが現われる。

「この人のピックアップするものは良質なものが多い」「この人の投稿さえ見とけば外さない」という他力本願な質の担保だ。

インフルエンサーにならなかった、大半の一般的なユーザーは、個々が「信頼がおける」と思っているインフルエンサーの拾い上げたコンテンツを、大きな口を開けて消費する。

でもそれだけになってしまうのだ。自ら新たな何かを探そうとはしなくなる。探すとしたらせいぜい、新しいインフルエンサーだ。

が故に、インフルエンサーが「反応は元の作り手へ」と、ワンクリックで辿れるソースをわざわざ入れても、余程でなければそちらまでは動かない。進言とは裏腹に淡々とインフルエンサーの投稿に fav だけが溜まっていく。

インフルエンサーは、新しきナニカとナニカの橋渡しにはなりえないのかもしれない。大抵の人にとっては、自分のタイムラインの先まで移動してまで見たいものなんて、ほとんどないんだと思う。

実は、おいらは、もう何年も前から、 Tumblr についてもその傾向がある気がしてて、メインのダッシュボードは、 Stylish で投稿者のアイコンや名前やリブログ数を全部消して使ってる。

おいらはココロが弱っちいので、そういった余計な付帯情報に引きずられて、リブログの手を止めたり動かしたりしてしまう場合がある、という感覚がどうしても拭えなかったのだ。それらが見えてる限り。

人気リブロガーとかインフルエンサーとかリブログ数とか馴染みのユーザーとか好きなユーザーとかナントカカントカ、そういう「人」に引きずられないで、自分が素でいいと感じる「モノ」が何なのかを知りたかったのだ。

ひとしきりリブログしてから、投稿者の付帯情報の消えてない個人のダッシュボードを見る。5桁リブログなコンテンツも時にはあるが、意外と2桁台が多かったりして、改めて己の偏りを感じつつ、そこで始めて目にしたリブログ元ユーザーのアイコンを見ていくことで「あぁ、おいらの好みとよく被るのはこの人か」というのが浮かび上がる。これが面白いのだ。

で、たいそう気に入ったコンテンツは、更に元ソースまで辿る。最近はそこまで余裕を持って Tumblr やるコトも減ってきたけど。

そう、決して、反応されなかった当事者が自分だからこんなコトを言ってる、というワケではないのだ。おいら自身はどちらかというと、執拗に元ソースを掘り出したいタイプで、ソーシャル何某はあくまで出会いの場にしておきたいのだ。

時にはそれだけでも楽しいとは思うけど、常に誰かのお仕着せばかりを受けとるばっかり、だなんてつまんなくないのかな。

ひとつめはそんな感じ。

そしてもうひとつは、もうちょっといやらしい「からくり」みたいなトコについて思うあれこれ。

多分そういうインフルエンサーな人々に着目され続けられれば、引っ張り上げられる確率もあがり、よきコンテンツの作り手としての認知と担保を得るコトは意外と容易にできる気がする。

引っ張り上げてくれる可能性のある人たちがいる所で、マメに作品を公開して、アピール続けて、コミュニケーションを欠かさずにいれば、インフルエンサー経由でその他の人たちにも、効率よく認知は広がるんだろう。

で、ある程度認められてしまえば、その後は、ブレた足の裏をアップしただけでも評価されるんだろう。信頼担保に基づいた、盲目的な評価。

実際のところ、コミュニケーション能力なんてなくても、本当に実力があって熱意がある人はしっかり拾われる。それは目の当たりにしてる。

でも、ちょっと実力が至らなくても、コミュニケーション能力が高いと、それはそれだけで大きなアドバンテージとなる。それも目の当たりにしてる。

なんかそんな図式が見えてしまって、最近は頑張っても頑張らなくても、どうせ大半は後者だよね、みたいな斜に構えた感覚を持ってしまって、なんかダメな心持ちになってるんですよね。あぁ、ココロが汚れっちまったってコトかしら。

ダメだからやらない……ってやってから言えよ、って言われそうですね。けど、おいら自身がソーシャル何某黎明期から、色々な場面で、純粋におもしろいから、という理由だけで人よりちょっと熱心にやってただけで、気づいたらインフルエンサーもどきという認知をされていた、みたいなコトはなかったわけではないので、何もやらずで判断下してるワケではないと思います。

実際、ここまでソーシャルネットワーク全般に対しての熱が下がりきる直前に出来た、ググれタスあたりだと、馬鹿みたいにフォロワ数は稼いじゃってるんです。虚しいまでに数だけなんですけどね、おかしな話。

元々おいらが手広く居着いてた、別のソーシャルネットワークからの移動ユーザーが多かったのもありますが、黎明期にアクティブであった、というのは替え難いコトなのかもしれません。

ささやかな自己主張をほんの少ししてたら、「フォローにお薦めの写真撮る人リスト」みたいないくつかの記事に載ってしまったり。そうなったら、こちらがモチベーションなくして幽霊部員になってたってお構いなしにフォロワは増え続けるんですよ。

で、もう長いことろくすっぽやってないでしょ? でも、稼いでしまったフォロワ数だけが担保になってるのか、未だに日々、サークルに追加されてるんですよ。

誰もタイムラインなんか見てないんでしょうね。ググれタスはどんぶりフォローも出来る仕組みがあるしな。きちんとチェックした上でおいらを追加するのをやめた人は可視化されないので比率はわかりませんが。

要はそういうコトの繰り返しなんだと思うんですよね。実力以外が多分に加味された状態で「人気取り」になりたいかっていうと、今のところはあまりそうでもないみたい。

どうなんだろうな、こんだけ書いたものの、やっぱり難癖つけて評価から逃げようとしてる、要は自信のなさの裏返しなのかな。

強いて言ったら、自信のなさというよりも、ソコに左右されて、作品に余計な精神的ノイズが入るのが煩わしい、というのはありそうだ。

でも、どんな手を使ってでも、沢山の人に見てもらいたい、っていう心理の方が、本来は正しい欲望なのかもしれない。

ていうか、ひっそりでいいから、もうちょっと出してこうぜ…w

2014/01/28

Awilo Longomba

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眠い眠いと思ったら、今日3時間半しか寝てないんじゃないですか。眠い時は無理矢理思考などせずに、気に入りのアーティストを紹介するのが一番ですね。

おいらが眠すぎでテンション低いので、とんでもないドテンションなこちらでテンション補完させて戴きます。お釣りが来そうです。

"Pili pili" by Awilo Longomba

コンゴの Awilo Lonbomba さん。 Soukous の中でも所謂、リズム早めでダンスもいささかお下品、と言われる Ndombolo と類されるあたり。

上の曲は恐らく、そんなに代表作って感じではないのかもしれません。単純においらはハマってますが。

代表作(多分)がまたあられもない感じなので一応貼っときますね。

"Cache Cache" by Awilo Longomba

もうこのバナナ腰蓑ガールズをはじめて見た時の衝撃と言ったら。目のやり場もクソもなくなりますね。耐性ってすごい。

Awilo さん、ググっても微妙に年齢不詳。でも見た感じで 30 歳後半あたりでしょうかね。チャラいオッサン風情がまたいい。全盛期は 20 世紀な感じで、大半出回ってるのは過去の動画のようなので、最近の映像を見ると更にオッサンになってるようです。

あら、数年前のレコーディング風景?

楽曲系統が最所の二つの動画の通りの勢いなので、歳いっちゃったら厳しいじゃろうに……と思ったけど、衰え知らずすぎてわろた。なんだこのテンションそのままのおっさんww 若者たちが座ってる中一人で踊りっぱなしだし、ご機嫌な子供みたいだわ。

や、いつまでもこの暑苦しさでがんがって戴きたいですね。

2014/01/27

裁きと常識

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どこで行き当たったのか覚えてないのですが、今日はこの記事で紹介されてる動画を眺めて、少し思うところがあった。

記事タイトルの「これは泣いた」があざとい感じがしちゃって、紹介しようか躊躇したのだけど。

ゲイについては否定だの肯定だのにすら頓着してないスタンスですが、主題であるゲイ家族についての云々や土地柄別比較は、今回のおいらにとっての主題ではないです。


何が気になったかって、実験その2でお手紙書いてきたドノバンさんのウェイトレスを諫める言葉に出てきた "Don't judge" がね。なんか響いちゃったワケです。

動画の会話を和訳をした別記事( fathomlessテキサス動画の和訳してみました)が、別途公開されたようなので、細かいやりとりはそちら観ながら動画観るのもいいかもしれません。

なんというか、日々、「自分の知ってる範囲」という限られた断片的な材料だけで、人は容易に他者を裁くものなんだよね。

なるべくそうはならないよう努めてたとしても、おいらも偏った情報だけで、誰かや何かを裁いてばかりいるんだろうし、おいら自身も一方的に裁かれて、苦しさともどかしさで泣くしかない時だってある。

自分の中での、数少ない信念みたいなものって今までは、「(少なくとも)自分が嫌だと思ってるコトは、自ら他人にはやらないようにする」だったのだけど、ここ暫くこの考え方にも限界がある気がしてた。

この番組でなければ思い至れなかった質のものではないのだろうけど、きっかけとして、その限界論が、この番組眺めてて、さっきの台詞を聞いた時に、なんとなく確信に変ってきたのです。や、よいきっかけにはなった。

自分相対値の物差しによる正義とか信念を基準にしてしまうと、どうしたって自分も、悪意無く他者に刃を向けることが出来てしまう。

このウェイトレスの行動の基準になってる物差しは「同性愛は悪」ありきで、それを前提に養育されてる子供の身を大まじめに案じたら、周囲が「裁くな」と言っても尚、ああいう攻撃は正々堂々と成立してしまう。

出てきたウェイトレスみたいなステレオタイプなゲイフォビアは実際いるだろうし、実際にああやって暴走してたとしたら、周囲がどれだけ反対していても「正しいことのためには、どんなに劣勢であっても声を上げなければ」という固い信念の元に頑張っちゃってることだろう。

で、ウェイトレスと同じ物差し持つ人もゼロではないのが現実なので、影に日向に支援・同意するだろう。ウェイトレスにサムアップしたおっさんのように。

収録場所はテキサス。ちなみに、テキサスはジョージ・ブッシュ・ジュニアがかつて州知事を務めた州であり、「赤い州」と呼ばれる共和党が強い地域で、同性婚はおろかパートナーシップ法もないというお土地柄。

…と、記事中にあったとおり、土地柄のイメージとしては(今回のお題である)同性愛への理解は米国にしてはあまり得られない地域なので、ある意味州外・国外の人からすれば、ここで周囲のお客さんの反応が、店員のゲイフォビアな振る舞いを積極的に許さない人が多かった、というのが意外だったワケだ。

コミュニティというのは大小問わず、大勢が同じ「常識」を美徳や善行、不道徳や不埒として共有している前提がある。国であれ、州であれ、街であれ、民族であれ、趣味サークルであれ、友人同士であれ(以下略。

同一コミュニティ内では、言わずもがなな常識で諮れてしまう Judgement へのステップは更に短縮され、簡略化され、パッと見で「あんなコトするヤツは人非人」「そんな行動は悪」という反応が可能になって、疑問を挟む余地というものはどんどん少なくなってしまう。

そういう簡略化自体も、ごくごく自然なコミュニティとしての智恵のようなものかもしれないが、どのコミュニティの構成員にだって個々の裏事情が隠れてることだってあるし、ゼロイチで善か悪かなんて諮れるものではない。

全部そうだとは勿論言わない。ピュアな悪だってこの世には沢山ある。けれど、常識に基づいて、聞くまでもなく裁かれてしまった罪人は、大概の場合言葉も返せず、投げられた石を受け続けるしかないのだ。

それが続けば、本人にとってすら、真意はどうでもよいものとなり、自ら卑屈な、罪人らしい振る舞いをするようになっていく。

ああ、そんな壮大な所まで書いたり思い至ったりするつもりはなかった。

自分が「既に」どちらかの当事者にならざるを得ない、または、なってしまっている部分に関しては、その時点で、客観的なものの見方が不能になっている、つまりは、当事者にはなす術はないと思ってる。

当事者ケースを並列に扱うとややこしいことになってしまう。その部分はどうでもいい。

ここに来て、身も蓋もないほどに傍観者っぽいですかね、すいませんw でも傍観者として出来る事の方が多いし、みんながそうやってけたら、おそらく、個々人がストイックに個々人の意識高めるかのような努力をしていくよりも、効率いい気もします。

自分が傍観者として、他者による他者への Judgement の場に行き当たってしまった時は、せめて、その場の裁判長殿に対して、手元にある事実で充分に裁ける状態かどうかを上手に尋ねられるようになれたらいいな、と思いはじめてる。

大したコトは出来ないし、積極的に介入したいとも正直思ってはいないし、一呼吸置いて尚、裁判長殿は同じ判断に至るかもしれないし、それが正しいコトだってあるだろう。

けど、一呼吸置いた後なら、結果は同じでも経過は多少異なってるはずで、perfect でも best でもないにせよ、 better に近づいてるんじゃないかな、と。あちこちがそうなってけたらいいな、と思うワケです。


しかし、取り上げといてこんなコト言うのもナンですけど、仕込みで周囲の反応を伺うドッキリ系番組は、どんなに内容が真面目っぽくても(というか、真面目であればあるほど、かな)、他人の良心を浪費する感じがするので、観た後に微妙な気分になりますね。あと、ああいう番組で攻撃者役やるの、かなりタフだろうなぁ。


全く関係ないけど、おいらは Judgement でなんとなく覚えてたのに、念為の辞書チェックで Judgement で意味が出てこず、 Judgment に置きかえられたので「???」って思ったのですが、どちらも間違いではないものの、 e 付きは米語なのですね。しらんかった。

学校ではどっちで習ったんだろう、日本の英語教育は中途半端に米語だから e 付きだったのかしら。今となっては覚えてない。

2014/01/26

踊り手と振付師から見た表裏逆転について考えてみた

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本日はビリヤニ食べて、南印はテルグ映画、 Ram Charan Teja 主演の Yevadu を観てきたので満足です。

あっ、言っときますけど、南印映画を知らないと解らないようなニッチな話を語りたいワケじゃないんですよ。違うんです、違うんです。

映画そのもののレビューは、おいらみたいな目の肥えてないヤツが、あることないこと薄っぺらに書いてもアレなので、他の詳しい方にお任せしちゃうけど、どっちかってとストーリー度外視でビジュアル眺めに行ったつもりが、ストーリーにも引き込まれたのでとても楽しかったです。

普段タラちゃん、タラちゃん(とおいらが勝手に呼んでる Jr. NTR )とばっかり騒いでいるので、話題にした記憶はほとんどないのですが、共演のクソガキこと Allu Arjun は実は前々から嫌いではなく、今回、日本のスクリーンには初お目見えでしたが、彼、やっぱ、かなりいいかも。いつか彼の主演作もスクリーンで観たいです。

劇中で出てきた彼の手配似顔絵欲しい。画像検索したけどひとつも出回ってないっぽい?

あっ、だから違うんです。大半の人にはさっぱり解らない世界の内情をアツく語りたいワケじゃないんですってば!

音楽シーンについては、楽曲も振付けもかなり気合い入ってて、でも、個人的にはやっぱり愛するタラちゃん推しかな、と、いちいち比較してしまう自分がおりますた。

というか、違うんですよ。今回気づいた……というか、薄々状況把握しはじめたものの、ちょっとうーん、という感じがしはじめてるのが、まさにそのダンス周り。

南印映画は北のボリウッドと比べると、音楽シーンは男子のパワーと技全開なダンス披露が目玉だったりするのだけれど、そのせいかコレオグラファーさんの色が全開すぎてるのかもしれないなぁ、と。

その結果、特定の(特に有名な)コレオグラファーさんが振付けしたダンスだと、「あの人っぽい構成で出来上がった振付け&振る舞いだな」みたいなのが先に立っちゃって、踊り手(俳優)の特徴や個性は意外と加味されてないヤツが散見される感じがしてきました。

今日のいくつかのダンスシーンで、ついついタラちゃんと比較してしまった理由ってのは、実はソレが大きな要素を締めてる気がしてて、特にアイテムっぽい2曲くらいは、タラちゃんの方がこういう時の表情(鼻の下伸ばす、コミカルちょいエロ親父系w)作るの得意だよね…という感覚から、タラちゃんが彷彿としてしまったワケです。

ていうか、ああいうの、むしろちゃらんさんは苦手そうだし、そもそも彼のカラーじゃなくない?

ああいうのが合うのはタラちゃんとかパワンさんあたりかな、テルグだと。おいら的にw や、パっと浮かんだのはこの二方だけど、むしろ、テルグ系でああいうのがNGなタイプって方が比率としては少ない気もする。が故に、合わないコトさせるのはなぁ、みたいな。

言ってる割に、コレオグラファーと各ダンスシーンをきちんと紐付けて比較したコトはないので、もしかしたらコレオグラファーさん単位の問題じゃなくて、どこかで当たると猫も杓子も同じダンスやモチーフを使い出す、的な弊害なのかもしれません。

いずれにしても、「この俳優にコレをやらせたらハマるであろう」もしくはその逆、みたいなのは、意外と計算がされてないのかもしれないな、と思うに至りました。そんなコトよりオレサマの振付け拝みやがれ、どーん! みたいな。

勿体ないなぁ。何よりも、踊らせて他の俳優を思い起こさせちゃ大失敗じゃないのかしら。あれっておいらくらいしか連想しないものなのかしら。

ちゃらんさんに合ってる振付けもあると思うんですよ。今日の音楽シーンのうちでも実際、どれだったか忘れたけど(ぉぃ)、いくつかはそう思ったし。雪なのに女子の薄着ひどい、的な、別の意味でツッコミどころのある雪山のアレとか。

映画みたいな芸事って、作り手と演じ手が違うから複雑ですよね。更に言ったら撮り手もいるし、監督もディレクタもヘアメイクもスタイリストも有象無象有象無象…。写真の場合は役割の細分化は多少減るだろうけど、人物写真とかはやはり、そういう面は同じくある気がする。

作り手の個性だけで勝負するってのはかなり特異な現象で、かといって、演じ手の個性由来のものだけで勝負しろってのもウソだろう。それぞれのバランス自体がケースバイケースであろうから、鉄板の比率なんかはないんだろうけど、そんな可変なバランスをいかにうまいこと見極められるかってのも、実は結構重要なポイントなんじゃなかろうか……なんてコトをあれこれ感じた次第です。


上記とはあまり関係ありませんが、前回観たテルグ映画がタラちゃんの Ramayya Vasthavayya だったのですが、観て暫くした後、タラちゃんに関してはこんなコトつぶやいてたのですよね。

根拠もないし気のせいかもしれないんだけど、なんか楽曲にしろダンスにしろ、ギョーカイでの扱いの機微みたいなあたりについて、なんとな~くそう感じたんだと思います。そうあって欲しいワケじゃないけど。一応こっちでもメモ。

2014/01/25

ネタあれこれ

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某所で拙い原稿を定期的に書くようになって以来、ときおり言われるのが「ネタのストックしとくといいよ」だ。確かに大抵、締め切りが近づいてくると、書くコトがなくて白目を剥いている。ストックが適温で保存されてて、それを適宜取り出して調理出来るのならそれはよいだろう。

そういう意味では、どうもおいらは料理下手と言わざるを得ない気がする。

まずは、前々から何度もボヤいてるとおりで、大抵の思いつきは、慌ててしまい込む以前に霧散しております。とはいえ、定期的に文字を書くようになってからは意外と、多少のストックは捕まえてはしまい込んではいるのです。

いるのですが、どうも出し時がピンと来ないコトが多い。かくいう今も、我が冷蔵庫のようなテキストファイルをしばし眺め、結局白紙のエディタに、まさにこんな内容を書いてるわけです。

なんででしょうね。話題としての鮮度がもうダメになってしまって捨てる、であればまだわかるのですが、そうでもないけど、アレも、コレも、なんか今料理するべきものではない、みたいな。

気分は勿論、結構大きい要素だと思います。ドン暗い時におもしろ話題なんて料理できませんしね。洋服だって、その時の気分にぴったりなお洋服じゃなきゃ着る気にならないじゃないですか。ネタを収集した時と書く時で、気持ちの一致が必要になってしまう。

あと、今ふと感じたのは、話題として旬か否か、の鮮度とは別軸で、勢いってあるんだと思うんですよね。たわいないけど、勢いで書いたんであればそのまま載せちゃうであろう話題。「カッとなってやった。でも反省してない。」みたいなヤツ。

でも、あとから改めて書こうとか思っても、筆が進まない、なんて感じの微妙な、しまい込んじゃよろしくない系のネタってのもある気がします。

そんなのばっかり仕舞いこんでるからダメなのかもなぁ。

逆に、片手間に調理が出来ない質のネタもある気はする。そういうのをしっかりきっちり下調べや検証しながら書けたら満足出来そうだけど、なかなかどうして。

ていうか、なんでそんなどうでもいい、持てあましたようなネタの話を延々書いてるんだおいらは、つまらん。

これまたおかしなもんで、即興で書きたい内容も実は色々とあるはずなんですよ。ストック未満で頭の中によく浮かんでくる思考とか。そういうのに限っていつまで経っても書かない。出し惜しみしてるつもりもないんだけど、これも勢い波長マターなのかな。

なんだかいつまで経っても、どんなにここを文字で埋め尽くしても、おいらの脳内の言語化にはほど遠いものなんだな。(そりゃそうだ。)

さて、明日はさいたまのアーンドラプラデシュに向わねばならないので、少しは早めに寝る方向に向おう。るるるるる。(すぐじゃないけど。)

明日眺めに行くテルグ映画 "Yevadu"

2014/01/24

アルジェリア×コートジボワール×マリ

こないだっから探してて、なかなか見つからなかった、気になってた曲の動画を発見したので貼っとこう。

正式な曲名は Un gaou à Oran かな。

Magic Systemの皆さんはコートジボワールの Zouglou の方々

Mokobéさんはマリ系フランス人ラッパー

Mohamed Lamine さんは、アルジェリアの Raï の歌い手さん

Magic System の Wikipedia に多少曲についての情報はあるようですが、各国ヒットチャートでベルギーで3位まで、フランスでは9位までは行ったのですね。おいらもひと耳惚れした曲です。アラブとアフリカとアラビア語と仏語は食べ合わせがよろしいですね。

なんでもない夜の町

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そういえば、ここでほぼ毎日よもやま話を書きはじめて、はやひと月を過ぎてたのですね。気づかんかった。

日付け的には2008年の8月あたりからあるようですが、大体その頃にテキトウに blogger でブログ作って、思い出したように書き散らかしたり、各所のログをアーカイブしたりしてたのだけど、一応記事の体裁を持ってるものだけ整理・統合した記憶。

しかし内容は昔も今もうっすいままだなw

考えてみたら今週、余裕があるある言ってたわりに、月曜からこっち、ずーっと、言葉どおり引きこもり状態だったコトに気づいて、(というワケでもないのですが、)おいらとは対照的に、突発的なお付き合い会合などで出ずっぱりだった配偶者が帰宅した後、連れだって夜の散歩に出向きました。

一時間半くらい、とりとめのない話をしながら、気の赴くままにふらふらと歩くのは、特別ななにかがあるわけじゃないけど、とても楽しくて。

なんだろう、おいらは写真でもそうなんだけど、名前のある個々人にはさほど関心がないようで、その分、至る所での人の痕跡、暮らしの痕跡、営みの痕跡、そんなのを拾い歩くのが大好きなのですよね。

(写真は同じ平塚市内だけど、別の日の夜の、別の場所)

冬の夜の町……だったからかどうかは、定かではないけれど、幹線道路沿いなのに薄暗くて、道幅は広いのにあまり人の往来はなくて、よく見ると通り沿いの建物の半数は一般住宅ではなく、だだっ広い工場の入り口だったり、人の去った事務所だったり、奥で店主が退屈そうに読書をしている客のいない飲食店だったり、生活感のない瀟洒なモデルルームだったり。

そんな、住宅地とは到底言えない場所にある住宅群は、二階にだけ点いてる明かりが申し訳程度に漏れてるだけだったり、奥の居間の明かりでぼんやり照らされた、台所の窓にぶら下がる調理器具の影だったり、煌々と明るく照らされた立派そうな家などひとつもない頼りなげな住宅群だ。

住民のささやかな愉しみは園芸なのか、車道からの砂塵を被りつつも、手入れをされたプランターが、家々の路面外壁沿いびっしりと、車道キワの縁石部分との両側から、歩道に向って色々な枝を付き出している。

こういうかすかな息づかいを拾い上げるのが大好きなのです。恐らく、気配さえあれば、人そのものはどっちでもいい。居なくていいw

こんな散歩、そのうち知らない土地に、電車に乗ってしに行ってもいいね、なんて話をしたり。うん、それも楽しいかも。夜には限らないけど、でも、夜は違った顔を見せてくれるしね。繁華街じゃなくても。

2014/01/23

異界接近遭遇(大袈裟)

201401230258

ピカード艦長の Facepalm アニメーション GIF は、削ってしまった段落に出てきたキーワード用に拾ってきたんだけど、その段落にはもはや用がないので、ピカード艦長にも存在意義はなくなってしまったのだが、もったいないので貼っとこう。タイトルにはちょっとだけ合いそうじゃんね。

しかし、なんで一時期、英語圏のネットで(主にピカードの) Facepalm が無駄に流行ってたんだろう。

今日は、おとといの、時間を作るの作らないのってヤツの真逆を行くような一日だったな。

月曜は㌧でもなかったものの、以降、今週は珍しく暇なくらいなんですよ。おかしなもんで、そうなると、退職しちゃった団塊世代のモーレツサラリーマン(死語)のお父さんみたいに、余暇を持てあましてしまう。

日々、やりたいと思いながらやれずにいたあれもこれもある筈なのに、無為に時間を過ごして気づいたら夜中になるわけですよ。時間の使い方、なっちゃないです。

でもって、夜中になってからちょっとした仕事始めることになったりね。

なあんて、ほぼ自虐みたいな感覚でつぶやいたものの、これって意外と真実かもしれん、と思ったり。

礼とか非礼とか、そういうベクトルではなくて、ウェブ作る仕事って時に、いくら言葉を尽くして説明しても、理解してもらえないんですよ。技術的に。で、それがその他の色々の火種になる。

理解してもらえたらスムーズにコトが運ぶ……筈なんだけど。おいら、過去に数年、 PC 初心者向けの IT 講習で評判のいいサブ講師もやってて、人よりは、わかんない人にとっての「何がわかんないか」のツボを押さえるの、得意な方だと思ってる……んだけど。それでも力及ばず。ぐふっ。

したためた長いメールの具体的な詳細は書かないけど、なんかアレなんですよね。最近も、見積り勉強会やったとか、見積り勉強会甘いとか、色々な意見がイモヅル式に出てきてて、その間大忙し過ぎて、各記事にまだ目を通せてないんだけど、アレでしょ。アレでコレでソレ。なんのこっちゃ。

なんかどうせ、お客さんも含め、関係者全員がリテラシー的に、もしくは企業人としてコンセンサス取りやすい都会の会社無言の前提条件とかある仮案件でやってるんじゃないんですかね。読んでみて違ったらごめんなさいだけど。

おいらのやってる案件の、片脚分近くはそういう方々の世界だけど、もう片脚分はそんな前提の存在する余地がない世界だったりする。

かくいうおいらだって、約3年くらい前までは夜になっても闇がキラキラ輝く都会の、会社としてはやや開発寄りの制作会社にいたので、実のところはつい最近まで同じ穴の狢なんだけど。

でもさ、そんなアイテーギョーカイやダイリテンの前提条件が通じるコミュニティの方が日本全国の各業種・業界の一握りな筈だと思うんだよね。

なのに、なんでそういう前提ありきの話題ばっかりなのかが不思議だったりする。一握り以外のお客さんとの仕事ってみんなどうしてるの? ないの? ないわけないよね? 困ってないの? ないわけないよね?? えっ、おいらだけ???

ブラウザを指し示す言葉が「インターネット」だったりする、そうじゃないと通じない世界。アドレスバーと検索バーの区別すらない世界。メールの「全員に返信」をいくら説明しても全員にメールが届かない世界。ファイル添付方法を図解で説明しても、メディアが宅配便で届く世界。メールの件名に用件は一切書かれず、代りに常に自分の名前だったりする世界。

そんな人たちも、好むと好まざるとに関わらず、どんどんインタネットを商売に使ってて、サイトで集客を試みたりしはじめてるけど、一握りな都会の第一線の人たちがこういう世界と触れるコトってないのかな。

不文律で説明が端折れる前提が覆ったときに、そういう人たちがどうハナシを詰めてくのかって、ちょっと見てみたい。や、皮肉はほんの1割くらいで、うまくコンセンサス取ってく方法があるなら悪魔に魂売ってでも知りたい……ウソです。馬の鞍となら交換してもいいかな。

そもそも論として、第一線の人たちがそういう世界と接近遭遇する必要性もよくわからない。ないのかもしれない。というか、どっちかであるべきですらないんだろう。

ブツクサ言ったりボヤいたりばかりしてるけど、でもって、ひと案件受けてしまっては、罵り言葉ばかりを口走りながら嫌々やってる割に、再びなんとなく受けてしまうんですよね、どうもおいらは。異世界の住人とインタネットの橋渡しみたいな制作案件。

絶対後悔するんですけどね。もうやらないよ! 絶対やりたくないよ! って、必ず言っては、配偶者に当たり散らすんですけどね。

幸いなコトに、最先端はたまーに垣間見る機会もあるので、四六時中、先っぽ突っ走り続けるよりは、そういう層の底上げしてく方が性に合ってるんだと思います。引っ張り上げてるつもりが、実際は自分もろとも沼に落ちてそうだけど。

201401231531 追記

2014/01/22

学ぶと教わるの違い

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今日眺めてたTEDは、途上国の子供に一人一台ラップトップコンピュータを、というプロジェクトをやってる(2006年時点)方のプレゼン。悪くはなかったけど、既に7年くらい前の話のようだったし、取り立てて内容そのものを取り上げたい気はないのだが、ちょっと面白かったのが、学ぶと教わるの違いについての話。

幼少期は、触れてみたり、歩き始めたり、何かに手が届くようになったり、そんな感じで日々、自ら学んでいる。ところが、学校(や幼稚園もかな)に通い始めた途端に人は、椅子に座り、テキストを受け取り、教わることで物事を智恵をつけていくようになる。

学ぶのと教わるのって、あんまり意識して別に考えてなかったけど、大分違うことなんだなぁ、と今更。ちょっとへぇ、と思ったのでメモ。

実際は別途、環境や人間関係をはじめとする、様々な something new に触れるコトで、触れるたびに、違った形での「学び」はずっと続いてはいると思うけどね。おいらみたいにオバチャンになったってね。

「教わる」方だって、実際は就学前から、家族をはじめとする周囲の大人や子供や、ペットからだって何かを教わってるだろう。でも、教わるための場所に、時間の概念を持って、好むと好まざるとに関わらず通うコトをルーティンとする、というのは、非常に現代のヒトっぽいよな。

でもヒトである限りは、そうやってでも教育を受けるコトは大切で、それが故に、今日のTEDの方も、そんなプロジェクトをやってるワケだけど。

今気づいたけど、 Podcast の日本語字幕より、本家の字幕の方がよっぽど読みやすいわw そうは言っても、自らサイトに定期的に訪れて見るかっていうと見ないだろうから Podcast でいいけど。

ていうか、手元にある最も古いのから見るようにしてるけど、そうすると、追いかけきるまでかなりの間、過去の話の中にいるコトになるし、新しいのから消化してく方がいかもしれんな。ふむ。

2014/01/21

やっぱり時間は作るものなんだろうな

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月曜はやっぱり忙しい。今週は特にだ。

ここのところ仕事中は気に入りの Soukous と Coupé Décalé の、その中でも気に入りの、 iTunes の Rating で4と5になってるものばかりを聴いている。とても楽しいけれども、大分浮ついた気分で仕事をするコトになる。アフリカの音楽は……いやいや、コンゴの音楽は、か? いい具合にやる気がなくなってよろしい。

ほっとくと阿呆みたいに仕事に貼りついて離れないワーカホリックタイプなので、最近はこれで中和してる向きもあるのかもしれない。

仕事の終わった今は、 Rating Free で満遍なく聴く。

まだ習慣化に至ってないけど、夜な夜な、最低1エピソードは、 Podcast で溜め込んでいる TED を眺めようと思い立った。

音楽動画は散々見ているものの、 TV も置いてない我が家では、ほっとくとそれ以外の動画コンテンツというものに触れなくなる。別に触れなくてもよいといえばよいのだが、英語ヒアリング方々、多少は建設的な感じのするコンテンツを消費してみようかと。

このブログにしてもそうだけど、最近は日々行なうモノが増えて来てるな。でも意外にこなせてる? 忙しい、暇がない、が口癖のようになってたものの、軽めなお題があれば、時間の作り方とか使い方とか、意外となんとか出来る余地があるものなのかもしれない。

もうひとつ、ほぼ日なルーティンにしたい作業が実はある。他よりは多少マストな感じがしてるのだが、それが故か、どうもソレに限って上手に日常に組み込めない感覚でいる。

けど、そんな感覚自体、あくまで感覚で、自信のなさの裏返しだったりするのかもしれないな。

よし、きちんと考えよう。

2014/01/20

おくることば(真っ直ぐ向かずに)

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全く違うコトを小一時間書いた上で、全部削除してこっち書くコトにした。そんなに言葉やネタを選ぶべき場所ではないつもりなのに、やはりなんだかんだ公開で書くもの、というコトで色々考えてしまうんだな。

そうは言っても、そんな思考回路に至るコト自体、一概に悪いコトでもないとは思うけど。

更に、じゃあ書き換えた内容は公開に値するのかと問われれば、大分、微妙である。説明不能ながらにその取捨選択の謎法則にも明確な何かはあるんだろうけど。

少し前に、若い知人が異国に旅立った。年齢は大分違うが、妙に類似点が多かったこともあって、結構仲良しだったように思うが、諸事情あって、ここ1年くらいで、残念ながら若干距離が離れてしまった感のある知人だ。

非常に類似点が多いながらも、決定的な所での考え方の違いみたいなのが露呈してしまったので、どちらが悪いというのでもないし、残念ではあっても、どうしようもない。完全に切れてるワケでもないが、また距離が縮まるとも思えない。そんな微妙な間柄の知人。

1年と少し前、大学は卒業したものの、就職もせずに1年を過ごして、今後の目標が定まらないでいた。で、漠然と焦り、混乱をきたして感情が安定しないで無駄に七転八倒を繰り返してた。

そんな様子を見て、異国に向うよう提案してみたのは、実はおいらだった。元々異国との親和性はかなり高いタイプだったし、根本的なベースの環境を変えた方がよい感じがした。

プラス、自分が若かった時には、そんなコトをする選択肢自体思いつかなかったけど、誰かがおいらの代りに異国に飛び出して、おいらがやれなかったけどやりたかったコトやったら面白いな、みたいな気は若干あった。似たもの同士だったので、理想的なシムとも言えた。そんな話は本人とも笑いながらしてた。

提案だけで、そこから先の選択やそれに向けての行動は勿論、本人自身のものだ。迷いもあまりなく、結構即決してた感じだし、決めたら目的に向っての行動は速やかに始めてた感じがする。我ながら、いい提案した気がした。

丁度そんな提案をした頃と前後して、互いの距離感に変化の節目がやってきた。それ以降は相談されても結構突き放しがちになるのだが、それから約1年と少しの間、コツコツと資金を貯めて着々と準備をしはじめてたようだ。

そんなワケで、そこから先は表面的な部分しか窺い知れないが、異国に向うと決めた以降は、当面の目標が定まっただけで、感情の乱高下も目だたなくなってたし、仮の職場での新しい業務も順調にこなしていたようだ。

で、取得してたビザ行使の期限を向える今月、予定通り無事旅立ってったらしい。

切れてるワケではないので、その後もオンラインで様子は垣間見える。今のところはまだ到着直後で、観光客並みにフワフワした感じに見えるけど、落ち着いたら目的を見失わずに頑張ってほしいと思ってはいる。1年なんてあっちゅう間だ。

ベースの環境を変えた方がよい、というのは、当時の本人の状況から、異国でないにせよ、家と人と土地を一旦離れて自立した方がよい、という大前提があったのだ。異国に向った時点でその面は自動的に、全てがリセットされてるコトになる。可能性も無限だけど、目的を持ってないとブレ幅も無限だ。

提案当時から出発時点までで、本人がどんな目標を掲げるに至ってるのか、積極性はどの程度なのか、受動性に寄ってるのか、そのあたりはさっぱりわからない。

本人、年齢の割にはしっかりした面を持ちつつも、年齢以上に肝心な部分で妙に弱くて、流されやすい。人には恵まれてる方だけど、愛と依存を混同しやすい面も持ってるのでそこが弱みにもなり得る。あと数年は意識的にもっと「正しくエゴイスト」になってもいい筈だと思う。

「いい人達に出会えてラッキーでした☆」は素晴らしいコトだとしても、1年後にそれだけで帰って来るんじゃいけない。それは生来持ってる「人に恵まれる」力を発揮したに過ぎず、キミが今まで持ってなかった何かを得たことにならない。周囲の人々の好意に寄りかからずに、彼らと共に、自分の足だけで立たないと。

成功するかどうかはどうでもいいけど、日本でもチャレンジに消極的だったけど、ちょっと億劫なくらいのチャレンジを試みて、今まで持てていなかった力か自信か、その両方かをしっかり自分のものにして帰って来れたらいいと思う。

帰って来れたら…っていうか、一時帰国程度は必要だろうが、別に、帰って来なくたっていい。

このURLは本人の目にも触れる可能性はあるものの、本人がコレに目を通す可能性は恐らくないだろう。期待もしてない。目に触れるならそれはそれだけど、自然に目に触れもしなかったものをわざわざ読んでもらうような働きかけはしないと思う。けど、ただ、記録はしておきたかった。自己満足。

気になるなら真っ直ぐ言えばいいだけなんだし、イヤらしいといえばイヤらしい。距離は遠のいてても、多少シム感は持ったままなので、そういう意味では、これからもこんな感じで生暖かく見守り続けるのかもしれない。

2014/01/19

ザイリュウとイミンと

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いささか場違い感を纏いつつ、某所にてビザ周りのお勉強をして参りました。大まかな骨格についてのお話、というコトで、導入の知識を得るにはうってつけだった気がします。

一番「なるほど」感があったのはタイトルのとおり。

日本て在留制度だけど、欧米を代表とする移民制度との決定的な違いって知ってるようで知らなかった。一昨年あたりに大幅改正はあったものの、日本ではずっと在留管理制度なので、実質日本に「移民」は存在しないんですよね。遠い昔に日本人が移民として流出した時期はあっても。

で、在留管理制度っていうのは、在留を(殆どの場合、期限付きで)「許可する」という、いささか上からな意味合いを持つ資格なんですね。何かあったら、それが例え永住資格だったとしても奪うことが出来てしまう。

翻って、移民制度のある国って、きちんとした法的手続きを経てやってきた移民は、その土地に暮らす、期限の定めもない「権利」が与えられる。その時点で、何かがあった際にお国の胸先三寸で暮らす権利を奪われて追い出される、というコトは基本的にないそうです。

あれれ、ネットで移民の国外退去、みたいなニュースなかったっけ? とざっくりググってみたけど、不法移民の「不法」を端折ってる記事が多いのかな。しっかり見てないし眠たいのでテキトウこいてるかもしれませんが、報道記事で肝心なキーワード端折るのは誤認を煽りそうで危なっかしいですね。

移民について、もうちょっぴりだけ深掘りすると、移民制度があって、さらに市民権を持ってたり持ってなかったりって、厳密には選挙権とかその辺りの違いのようですが、国によっては実質、ほぼ国籍と同等なニュアンスもあるようですね。

なので、そういった国をあたりまえだと思っている異国の方が、日本に在留しようとすると、日本のガラパゴった在留管理制度への理解は難儀するようです。長くなるので詳細は追いとくけど、日本には「入国」や「上陸」の厳密な違いもあるそうです。

ついでに、一般的にビザというと、査証と在留資格をひっくるめた俗称みたいなニュアンスで使ってるコトが多いけど、「査証=在留資格=ビザ」な国と「査証+在留資格=ビザ」な国があるそうで、日本は後者なのですって。ややこしい!

話が逸れましたが、要するに、外国人が日本で暮らす「権利」を得るには、生まれた時の国籍を捨てて、日本国籍を取るしかないわけです。それって、自分に置きかえたらどうだろう。

仮においらが異国に移り住むとして、そこが移民制度のある国だったら、余程の事情でもない限りは、おいらは日本国籍保持したまま移民として生涯を終えるんじゃないかと思います。大分若いうちだったら別の判断に至るかもしれないけど。

じゃあ、移民制度のない国だったら…? たらればなので、実際どうなるのかは国や状況で大分違うと思うけど、どの国だったとしても、まずは別の在留資格を模索する……のが普通だよな。そうすると思う。国籍手放す、という選択って、最後の最後までは取っておくでしょうね。

なんだろう、国籍って、おいらにとっては、家族や出生地や性別や身体的特徴同様、嫌いな部分も愛着のある部分もひっくるめて、選択の余地なく、生まれながらにくっついてきた自分固有のアイデンティティ……の付帯情報、みたいな感じかな。

そういうのって、わざわざ捨てる方が意外と大仕事、かも。主に精神的に。特に執着はないけど、積極的に捨てたい、と思ってないのに捨てるべきモノかというと、上手く言えないけど微妙に違う感じ。

日本人的な低い鼻だったとして、それが仮に多少の非モテ要素だとしても、整形しないまま生涯を終える、のと同列、というか。そうやって考えたら、積極的にプチ整形する派もいるでしょうから、そちらを否定はしません。というか、そういう選択自体、個々人の自由意思だと思うし。

なんか東亜細亜同士の罵りあいで、帰化したら仲間と見做してナントカ、とか、日本人になるなら聞く耳持ってやって云々、とかを一方的に言ってるのをたまに見かけます。

そういうコト言う人たちは、なったらなったで「帰化民」というラベルを用意して待ち構えてて、要するに、どう頑張っても同化を受け入れるつもりはない気がするんだけど、他人の人生に無駄カジュアルに深く首突っ込んでる自覚は……ないんだろうな。

本気で同化したいならスタートレックのボーグを見習った方がいいと思うんだわ。

"We are the Borg. You will be assimilated. Resistance is futile."
「我々はボーグだ。お前たちは同化される。抵抗は無意味だ」

あっ、やだ、決まり文句とは別だけどボーグ、つったらこのシーンは溜まらんちん。

やっばい、ニヤニヤしてきた。このロキュータスなピカード艦長のEP前後編二本立て、また通して眺めたい。

2014/01/18

引き籠もりの風邪

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昨日の外出で風邪を戴いたのか、体調が大分悪う御座います。

ていうか、引き籠もりなので昨日の外出くらいしか思い当たるフシはないし、昨日の行きがけの電車で途中から隣に乗ってきた若者が、マスクもなしにゲフゲフやってておいおい、と思った記憶は確かにあるのですが、果たして昨日の今日で頂き物がワタシの肉体でも活気づいたりするのだろうか。

その上今日は、ここ一年ちょい続いているこのルーティンワークで、一日に恐らく最も数をこなさねばならない日になったようで、まぁ、へろへろなわけで、そのお陰で多少へそが曲がってる。そういう時に長々書いても Productive ではなかろうから、この辺で早々にやめておこう。

さて、あしたも出ずっぱり。どうもここのところ、週末が妙に忙しい。ああこんな筈じゃ…。

2014/01/17

今年の目標とか、とりとめのないはなし

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やれやれ目論見がうまく行かんかったな。某所の古い記事を一気にこちらに統合したいのだけど、で、昨夜、実験として最新の記事をこっそりと、本家での公開日時(つまりは過去の日付)を指定して投稿してみたのだけど、しっかり最新のRSSフィードにも乗っかっちゃって、各方面に投稿が流出しちゃうんだなぁ。古い日時にしてる記事はフィード上でもしゃしゃり出てこなくていいのに…w

しょうがないから、古い記事もわざわざ晒しちゃう前提で、週末にでも夜な夜なちょっとずつ更新されるように設定しよう。一旦、1日1記事で未来の日付で全部放り込んでおいて、公開されたら順次、本家での実公開日時に書き換えでいっか。

めんどくさいけど今のうちに統合しておきたいしね。しかし、1日1記事でも40ウン日かかるのか……大して書いてたつもりはないんだけど、意外に溜まってるもんだな。

今日は出稼ぎだった。いや、まぁ、出稼ぎというのは多分に語弊があるけれど。月の大半は家に引きこもっての作業、で、ゆるめスパンで表に引っ張り出される。今の仕事環境は自分には結構、理想的と言えば理想的。いつまで続くのかはわからないけど、この環境がなるべく続くよう、で、更に効率よくやってけるよう、自分もがんがらなければ。

というのは、慢性的に余力が持てないでいるのはちょっと問題かな、と。で、今年の目標は、

「もうちょっと余暇を作る」

これまでは、「もう少し余暇が出来るとよいな」と、忙しさを呪い、余暇をクチ開けて待ってる感が強かったんだけど、余暇なんて多分待っててもやってこないし、1日は36時間とかに延長はしてくれない。

そもそも、仮に余暇がやってきたとしたら、それは大抵の場合、おマンマの食い上げを意味する筈だ。というか、現状でもうアップアップしてるようじゃ、今以上稼ぐコトすらままならないコトになる。それじゃいつまで経っても遊んで暮らせない!


ここ数日、風呂で流れたとかなんとかボヤきながらも、実はちょこちょこと「思うところ」ストックは増えているのだが、そうなるとお題っぽいのだけメモしてここに書こうとしない。なんてツンデレ。いや、ツンデレとは違うな…。

でもまぁ、ココは思考のきっかけの場なので、ココ自体が整然と纏まらなくても、きちんとしたナニカを発表する場にならなくても、別にいいのだ。

いいのだ、って割に、沢山ではないにせよ、読んで戴いてる方もいらっしゃるようで、コメント戴いたりRTして戴いたり、ふぁぼって戴いたりと、なんか申し訳ない気もしちゃいますが、ちょっとは嬉し恥ずかしかったり、ね。

気の向く範囲でコンゴ(下記参照)もテキトウにお付合い下さい。だらりん、ゆるりん、と、思いついた時のユルめ茶飲み話のネタ程度には丁度いい具合かも。

とはいえ、読者を意識することを中心に置くと、恐らく自分の目的からもズレるし、書き方も無駄に媚びが入ってしまうのは望まない所なので、やはり孤高で書いてるつもりで行きたい所存。ダメなんですよね、どっちかってと、頼まれてもいない責任感に倒れるタイプなのですよ。勝手に期待を背負って無闇に頑張っちゃって勝手に潰れるという、実に馬鹿馬鹿しいタイプ。

ていうか、ここまで長めの文章でないメモ書きもしたりしていきたい、って思ってるのに、どうも長々書いてしまう。そのせいで夜ごとの大ごとっぽくなってる、とも言える。それはよろしくない。こうなっちゃうのって性格のせいなのかな。いちいちめんどくさくて疲れる性格な気がして時折嫌になる。や、言ってるほどではないけど。

さて、散漫に書き散らかしたところで今日はやめとこう。どうもフライデーナイト気分が拭えないけど、明日がホントの金曜日だ。

2014/01/16

一人弁論大会と泡(あぶく)思考

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おおっと、今日もダメだった。

これらですよ、これらこれら!

今も頭洗いながら、頭拭きながら、止めどもなく良き思考が湯水の如く溢れ出てきて、でも、こうなるコトが解ってたので結構頑張って覚えてようと思ってたのに1割も掬い上げられずに終わったのである。

ホントどうしてこうなるんだろう。

湯船に浸かってる時は、特に最近は Kindle 持ち込みで転送した記事とか物語とか読んでるので、自発的な思考自体があまりないのですが、洗髪と、風呂上がりに頭拭いてる時が一番困りものなのですよね。全く手が離せないけどアタマ(の中)だけは超開放的だからでしょうか。

しかも、「あっ、その思考、何かに書き留めたい感じ!」と思ってる傍から、他の魅力的な思考が湧いて来ちゃうんですよ。おれ、天才なんじゃないかって勢いで。

でもアレなんでしょうね、そこで努めてもなお、せっかく浮かんだよい思考の9割方を霧散させてしまってるコトこそが、凡人の証なんでしょうね。あはは。

でね、そんな思考たちを、なんとか留めておきたい! と思った無意識が、思考を溢れさせながらも、慌てて思案した結果、浮かんできた思考を口に出さずに、脳内で反芻しようとするんですよ。なにやってるの…?

ちなみに、これって前々から試してはみたいと思いつつやってないんだけど、ツイン・ピークスのクーパー捜査官よろしく、ボイスメモ取ったら少しは捕まえきれるのかな、どうなんだろう。風呂場周辺で夜な夜なとりとめのない独り弁論大会。怪しすぎるw

あいほんあるからその気になればすぐ試せるんだけど、自分の声を聞くのが大分嫌いなのでちょっと避けてしまってるのだよな。

それに、あの「ネ申」思考モードの時って、脳内ではひとつ、またひとつ、と、現在進行形で泡(あぶく)のように思考が弾けてるワケで、思考1と思考2が途中、複数おり重なって同時進行で進んでたりもしてる。最終的にはどちらかにフォーカスしてしまうのでもうひとつは消えて行くんだけど、そんな調子だから、思考の弁論大会を始めようったって、言葉に出来る思考の台本が追い切れない。

しかし、そうやって考えると面白いですね。思考って、書きつけるのは勿論のこと、それを言葉にするのよりも更に速いスピードで脳内では処理されてるんですよね。不思議だな、思考自体も、「思考」と認識出来てるものについてはみんな、脳内ではある程度言語化は完成してる気がするんだけど、それでもオーラルよりも早いんだな。

そのうち試してみよう。でも言葉にする、というのは、せっかくの思考を邪魔する、結構大きなハードルのような気がしてるので悩ましい。

で、ココにはなんとか捕まえた、尻尾だけになったトカゲの残滓すら書きつけることなく、ボヤくだけボヤいて終わるのです。

2014/01/15

Soukousのライブ:アーティスト別ダンスタイム比較

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おいらがもう半年以上ハマっておるコンゴの Soukous 。一応スターたる主人公な歌い手は一人だったり、多くても数名のユニットで、でもライブにしろ PV にしろ、それ以外に男女ダンサー群、コーラス群、雄叫び的合いの手群とそれぞれ、または兼任で、相当数抱えており、かなり大所帯。

ライブになると、主役の歌中心の時間と、主役もマイクを置いて、メンバーひっさげてのダンスタイムになる時間とがあるコトが多いのですが、このダンスタイムがまた大好物です。だって楽しいんですもの。

で、そんなに沢山ではないけど、比較的新しくて現役な Soukous スターのライブ動画を観漁ってると、意外と個々にダンサーのタイプとかダンスの構成とか特色があるのですよね。ちょっと面白い。

Fally Ipupa

おいらご贔屓 Fally たん。

これは冒頭、本人ちょっと歌うけど、後半は完全に、歌はコーラスメンバーの晴れ舞台として任せてしまって、マイクを手放してダンス専念します。

どっちかってとしっかり構成されたダンスタイムを演出って感じかな。何故かステージでは男子中心が多い気がする。女子も時折登場するけど、あまり主体になることは多くない気がするな。女子のほうが個性的なダンサーいるのに。

あと、今回取り上げる系じゃないダンスタイムとして、とある歌モノの曲の時がいつも、観客の女子をとっかえひっかえステージに上げては束の間一緒に踊る、みたいなあからさまなファンサービスタイムがあるコトが多いんだけど、アフリカ女子、かなり肉食系が多くて、ステージに上げられたら照らいもなく、Fally たんにガバりと襲いかかり、Fally たんは肉食ファンを突き飛ばしてステージを逃げ惑ったりしますw

後半の Tshilengi Lengi のダンスは多分このライブ一番の目玉ですたね。やだ、もう、魅入っちゃってちっとも文字が進まない。なんせファンに言わせればアフリカいちセクシーなダンスをする男ですもの♥

Ferre Gola

Ferre Gola たん、実は Fally たんの元同僚。二人とも、今や Soukous 界のサブちゃんみたいな地位にいる Koffi Olomide のダンサー兼コーラスグループ、Quartier Latin で一・二を争う間柄でしたから。判官贔屓するワケじゃないけど、 Fally たんの方が天才肌、 Ferre Gola は秀才っぽい感じかなぁ。

そんなこんなで、Ferre Gola 自身も歌もダンスも結構イケるのですが、彼のライブのダンスタイムは群舞でありつつ、いつも、お抱えダンサーズを一人一人じゅんぐりに前に出しては踊らせる時間を持ちます。

しかも、幸いこの動画にはなさそうですが、普段どの程度リハーサルやってるのかわかりませんが、ステージ上で気ままに順番決めてるのか、結構仕切りが悪い時があります。で、そんな調子だからか、時折、野心がありすぎるのか没頭しすぎるのか、前に踊りに出たまま戻ってこないダンサーとかがいたりして、たまに Ferre たん自ら「おいいい加減に戻れ」みたいに肩たたきをしに向ったりしますw

人がいいのかテキトウなのかわかりませんが、人柄って出るもんですね。

Werrason

先の二人よりはちょいおっさんの Werrason 、実はこの人はダンス下手なのですよね。本人もそれは自覚してるのか、ダンスタイムは本人、完全に引っ込んで休憩タイムとなります。(この動画で冒頭踊ってる男子はダンサーさん)

その自分がダンスで見せ場を作れない替わりなのか何なのかわかりませんが、彼のダンスタイムといえばちょいエロな女の子群舞~順繰りのソロダンス。しかも、なんでかよくわかんないんですけど、みんなこぞってパンツ見せようとするんですよ。

注意深く眺めてると、踊りながらそこここで腰回りに手をやっては、アウターをひっぱり、敢えて色味の違うものを選んだとしか思えないインナーを腰からはみ出させてます。この動画はまだマシな方で、酷いのは、ミニスカ半分ずり落ちんばかりに引っ張り下ろしてたり。なんなんでしょうね、この謎文化。

しかし面白いのが、さすがは黒人女子たちなので、ケツが日本人なんかよりプリプリしすぎてて、アウターを下げても下げても、ダンスしてたら上がってしまう。で、イライラしながらまた下に引っ張る、みたいなのがちょっと笑える。しかしみんなダンスはうまい。

Koffi Olomide & Quartier Latin

上述の Fally たんと Ferre が同じ職場() の Quartier Latin にいた頃、つまりは、現在の若手スター等自身がダンサー群として、 One of them だった時代です。まぁ、実質この時点で既にその他大勢ではなくなってますが。

ダンス二人目が Ferre で、三人目が Fally ですね。たまらん。

おまけ

Fally のライブに出てきた Tshilengi Lengi のダンスの、まさにそのライブのリハーサル動画がめちゃくちゃかっこいいので、これで締め。(きりがないw)

2014/01/14

デジタルちゃいろ[42]節目いろいろ

この記事はメールマガジン「日刊デジタルクリエイターズ」に書き下ろしたした記事「デジタルちゃいろ[42]節目いろいろ」の元原稿です。加筆は一切してませんが、掲載時点で古くなってしまったリンクやそれに纏わる文言のみ一部削除している可能性があります。

あけましておめでとうございます。

正月早々、いきなり厨二臭いコトを言い出しちゃいますと、明けたら何が目出度いのか、正直よくわかりません。慣習上、どんな根拠になってるのか、何故目出度いのかを論理的に教わった記憶もありません。

調べたらああなるほど、な根拠はあるのかもしれませんが、もの凄い能動を以て調べないとわからない程度には身近とは言えない根拠を持ち出されても、それはそれで困惑してしまいそう、というのが正直なところ。

ですが、これが面白いもので、毎年毎年毎年毎年同じ時期に同じテンプレに則った「目出度い」とされる行為を繰り返しているからか、新しい年が明けた、というそれだけが、あたかも目出度いコトのように思えてくるのですよね。そんなコトがふと我に返ると不思議だったりします。

誰でもどこの国でも、なにがしかの期間の反復での一巡を終えて、更なる新たな一巡を開始する、開始できるコト自体を喜ぶ、というのは広義では共通してる感じがしますよね。

日本だって、正月に限らず、成人式や七五三あたりは、自分も通ってきた道として身近に根拠を理解出来る節目行事ですし、個々人の誕生日なんて万国共通、最たるもの。実際、正月も同じコトなんでしょうね。祝う対象が人ではない、というだけで。

こと、正月については、東亜細亜だと日本以外は今でも旧正月が重んじられてる感じがします。あっ、Wikipedia先生によると、東南亜細亜方面も結構、旧正月派なのかしら。

というか、旧正月を旧正月と呼んで、新しい正月をグレゴリオ暦の初月に置きかえちゃってるのって日本だけだし、その他の亜細亜地域では「正月」という言葉そのもの自体が旧暦の1月のコトなんじゃないですか!

やだわ、正月ですらガラパゴスに孤立してただなんて、今の今まで知りませんでした。いつから日本だけそんなコトになってたんでしょうか。

なんて、やや大袈裟そうにそうは言ったものの、グレゴリオ暦の1月1日を迎えるに当たっては、全世界なんとな~く、おめでたムードにはなるので、何も日本だけそこが特異なワケではありません。

とはいえ、他の国って意外と、その国特有の新年……というよりは年の節目たる年間最大イベントが、数字上の初月初日以外の根拠で別の時期にしっかりあるコトが多い気がします。

日本てどうなんだろう。祝日マターで見ていっても、社会的に長期休暇を取りづらいかわりに、国民の祝日の年間日数は異国より比較的多いと言われる日本ですが、正月以外にほぼ万人が節目感を高めるその他イベントなんて、ありませんよね?

近代の年中行事だと、バレンタインやハロウィン、クリスマスはあまりにも商業ベースだし、万人向けかというと微妙にそうでもない。夏休みなんて業界によりけりで、お盆に必ず取るとも言えたものではない。成人式やこどもの日や勤労感謝の日や敬老の日は節目モノとはいえ、一応対象者が限定されてる。

ワタシの乏しい南亜細亜界隈の知識からだと、印度の主要地域をはじめとするヒンドゥ圏では主に10月のディワリが新年となるらしい。

印度は9月頃から延々、各種お祭りシーズンに入る。ここで面白いのが、各種お祭りに対しての思い入れは地域性によりけりで、ディワリは一応、基本的にはラクシュミ様が主役。

なのですが、別の神様がその土地で最も人気のある神様だった場合には、そちらの神様が主体のお祭りの時期の方がその土地ではディワリ以上に盛り上がってたりするらしい。

例えばムンバイでは、ディワリも勿論行なうんだけれど、日本でもお馴染みの象頭のガネーシャ信仰が強いので、ディワリより先に行なわれるガネーシャ祭りの方が皆さん力入ってたりするそうです。

なんだろう、本音新年と建前新年、みたいな? そんなお祭りが約ひと月違いくらいで立て続けにやってくるのだから、印度の秋は、所により文字通り「盆と正月が一遍にやってきた」状態になるのだそうな。ちょっと楽しそうでもある。

同じく南亜細亜(に留まらないと思いますが、地域性との融合度合いが不明なので)、パキスタンをはじめとするイスラム圏では犠牲祭の大イード(新年…というより新年を迎えるホリデーシーズン開始、みたいな)とラマダン明けのイードがあったりする。

こちらはそもそもが太陰暦スパンのヒジュラ暦ベースなので、グレゴリオ暦のいつ、という置き換えは効かない。それどころか季節ともズレが生じるので、同じ祭事が夏になったり冬になったりしていく。

ここ最近はラマダン(断食月)が夏場になってるようなので、ムスリムの多い暑い地域は大変だろうなぁ、なんて思う(……のは門外漢が故の大きなお世話かもしれないけど)。

そんな南亜細亜のワカモノたちも、社会的階級や環境によっては、自分たちにとっての年間最大イベントとは捉えていなくても、グレゴリオ暦1月1日の新年明けイベントは行なったりもするようだ。

アルコールを伴ってるかどうかは置いといて、お祭り騒ぎの理由付け的な意味では、まさしく「いちがつーはしょうがつーで酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」である。

欧米の、主にキリスト教が宗教の中心に不文律的に存在してる地域でもニューイヤーイベントはあるだろう。正直そちらはあまりよくわからない。

わからないながらに思いつく推測としては、恐らく、元旦より1週先んじてるクリスマスの方が本気だし本番だし、実質、1月1日なんて、ホリデーシーズン折り返し地点ののろしとしての花火打上げ、くらいの意味合いなんじゃないかしら(偏見)。

本気のクリスマスといえば、十ウン年前にクリスマス前後にスペイン旅行に行ったときは正直閉口した。普段やってるお店やレストランも、自分たちのための非営利の、本気クリスマス準備のために、極端な営業時間短縮や休業に入っており、外食にも難儀したのだ。

実は旅に連れ立ったのが高校時代の同級生で、実はその母校というのがミッション系だったので、実は必修科目としてミサをはじめとする宗教行事に参加させられたり賛美歌歌わされたりとかは在学中の日常行事であった。

そんな経緯もあったので、その土地のクリスマスのミサってどんなかね、みたいな共通の興味があり、クリスマスの夜は軽い気持ちで近くの教会を訪れた。商業施設も閉まりまくってるし、行き場も限られてたしね。

(余談だが、ワタシに限って言えば、その高校に入ったお陰で、入学前までは持ってた筈キリスト教に対してのよいイメージはガラガラと崩れたし、現在のイスラム萌えに至る道程ではこの時期の反発心も大いに一役買ってるのではないかと疑ってる。そんなのも「縁」としか言いようがない。キリストさまとワタシはご縁がなかったんだな、と思ってる。)

単なる好奇心で混じり込んだものの、全員が賛美歌歌う、みたいな場面に至り、どうやら手に手を取って賛美歌を歌う、という運びらしい。そこではじめて横に立ってたおばちゃんがこちらに一瞥をくれた。

どう見ても土地の人間ではない東洋人の小娘たちを二度見するも、「同じ信仰があるなら言葉なんて!」とばかりに、言葉は一切無しで、奪うように手を繋がれ、共に賛美歌歌いながら、内心では、いやごめん、クリスチャンなワケではないのよ、ホントごめん……と申し訳なく思う。

本気クリスチャンがデフォルトの国はやっぱりクリスマスは本気だし大まじめですよね。米国はよくわからないけど、欧州は結構ストリクトで保守的で大まじめな所多い気がするな。

そうやって考えるとムスリム国と本質的には同じなんだな、という気もします。単に、宗教由来の行動規範が、欧米の物差しで、当たり前と受け止められるか、異質と受け止められるか、の違いだけですよね。

さて、この新年話、今回の記事の触りにちょっと書きはじめたつもりが無駄に膨らんでしまったけど、うまい畳みどころがいまひとつない。

1月1日に限らず「新年」の祝いの背景は現代でも意外と宗教に根付いてる所の方が主流なんだろうな、と思います。世界的に見たら。

どちらかというと「重要なまつりごと」が「明けた|明ける」から目出度い、みたいに、「明ける」こと自体が主役ではないのかもしれない。

大戦後に残念な形で宗教と決別せざるを得ず、宗教全般を頭ごなしに、弱みに付け込む胡散臭いもの扱いするしかなくなってしまった日本は、明けたコトそのものに縋るしかないから心許なく感じるのかもしれない。

ワタシ自身のこの新年は、例年以上に正月らしいコトはしませんでした。最近、和出汁にちょっと凝ってる配偶者が、暮れに先行して雑煮を作ったりしてましたが、以降、年越しそばも食してないし、年明けてから餅すら食べてないわ……。

正月についてはそんな扱いになってしまいましたが、個人的な年中行事は世間とは切り離してしっかり楽しまなくちゃいけませんね。

取り敢えずは自分と配偶者の誕生日とか、結婚記念日とか、その辺でしょうかね。大抵、配偶者の食べたいものを食べに行く贅沢グルメの日にされてしまいますが。

あっ、それこそまさしく「酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」なのだな……。

どこかの国の音楽

"Alingo" by P Square

個人的には引き続きアフリカはフランス語圏に萌えっぱなしですが、今回はアフリカ英語圏、ナイジェリアのP-Squareのお二人を中心とする群舞をどうぞ。

もうこの、衣装にしろ無駄CGにしろダンスにしろ、清々しいまでに突き抜けたダサさがすごい。しかも、そんなダサさも我が道を半周しちゃえばかっこよく見えてしまう、みたいなダサかっこよさがなんともクセになるのですよねw

この人達、過去にはそれなりに洒落乙風アフリカンポップスもやってないワケじゃないのですが、年々、鋲付きのハードレザー肩パッドバーン、みたいなスタイルへの執着が隠しきれなくなってる感じです。

結構最近の動画だと、直球でマイケルジャクソントリビュートな動画とかも出してるので、ああいうやり過ぎ感のあるエンタメ、真骨頂なんでしょうね。

……と、P-Squareをダサいダサいと半笑いで紹介しといてナンですが、英語圏は全体的に垢抜けた感じがします。やはりガーナ・ナイジェリアあたりは大都会感強いですね。

YouTube眺めてても、うまく表現できないけど、動画の各種クオリティが都会のキー局(英語圏)見てたら地方CM(仏語圏)流れてきた、みたいな落差かも。それでもやっぱり仏語圏ラブなんですけどねっ!

後記

正月は北海道、道東のとある漁師町で、二歳男児のいる暮らしを垣間見てきました。考えてみたら男の子ってこれまであまり縁がなく、しかも1週間近くというそれなりにまとまった時間、近くで眺めていましたが、女の子とは別のイキモノですね、あれは。

言語コミュニケーションの初段階に入ったばかりという時期だったこともあって、今は時折人間語の混じるインコのさえずり、はたまた宇宙との交信、みたいな感じで、色々と面白かったです。

旅慣れることと運の良さとパキスタンのドライブの記憶

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地図は行った記憶のあるエリア
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多忙で詳細を追えないままにいた南米新婚旅行で撃たれてしまった人のニュース。その後のネットの喧々諤々も斜め読みしかしてないのだけど、この記事が実際に近いのかもなぁ、とは思った。

おいら自身、旅慣れるにはほど遠い……割に、妙な旅をほんの少々、という感じなワケだけど、おいらの場合はピンで出向きつつも、深かれ浅かれ、現地に既知の知人ありきの、意外と他力本願な異国滞在が多かった。我ながら意外だけど、バックパックでドミトリー一人旅、みたいな経験は皆無だ。

複数回行った英国スコットランドも、気づいたら二ヶ月越えしてしまったパキスタンも、現地の知人宅やホテルを転々としつつ、基本は知人のエスコートありだった。米国ニューヨーククイーンズもそんな感じだったな。

時間に余裕さえあって、相手がある程度信頼出来れば、現地の知人を訪ねる旅、観光地じゃない所(知人宅)起点で街も楽しめるし、ベタな観光地もレアな街も連れてってもらえて、安全で非常に面白い。

この「ある程度信頼出来れば」という前提条件がキモな気もするのだが、ここはワタシの場合は運がよかっただけかもしれないので、人にも同じ旅を薦められるかというと微妙な所ではある。

それは無理でも、英国だったらB&B1みたいな、人んチっぽいような民宿っぽいような宿泊システムがある土地でなら、試しにお世話になる、とかは、旅程に入れてもいいと思う。ホテルや安宿以外の選択肢として。……なぁんて、おいらは必要性がなかったので実際やってないので無保証だけど。

いくら旅慣れても、それが一時的な滞在でしかない限りは、その土地で異邦人でしかない限りは、自分がそこに身を置いた、その場、その時の状況をよそ者の立場でしか見るコトが出来ない。

成功体験が積み重なれば積み重なるほど、「大丈夫、言われてるほど危なくないし、以前はこれで切り抜けられた」みたいな感覚は持ってしまう。でも、その都度、運がどの程度加味されていたのかは、その土地の日常を知らないから計れない。

その運の良さには、「自分はたまたま被害にあわなかったけど、先週、隣にいたあの人は殺された。生死を分けたのはたまたまでしかない」みたいなその地域での日常の危険の確率情報は確かに入らない。

パキスタンの大田舎に滞在していた時、滞在先の家族全員でその大田舎から別の大田舎に暮らす親戚を訪ねに行ったコトがあった。小さな4ドアに大人が6人に赤子と幼児で2人くらいでギュウギュウ詰めになって。

一応お客さんと言うことで気を使ってもらったので、すし詰めの後ろの席ではなく、幼児付きで助手席を割り当てられたのだが、出かける直前に「あ、これダッシュボードに仕舞っといて」とカジュアルに拳銃を渡された。ずっしり。びっくり。

それだけで今更ビクビクですよ! まぁ、渡してる相手もその家族達も意外にフツーにしてるので、こちらの考えすぎなだけだったのかもしれませんが、なんせ拳銃のある日常なんて初体験ですから。なんで、なんで、なんでそんなモノがここにあって、なんでそんなモノを持参するの、一体どこに行くの、ここはどこなの! と、その時点では今更感溢れる疑問が溢れ出る。

街と街の間に山賊が出る地域があるから念のため、との回答だったが、日の高かった往路はさておき、日の落ちてる復路はもう、疲れてるんだけど怖くて緊張して目を閉じてらんない。とはいえ緊張しすぎの相乗効果で疲れ切ってるもんだから寝るに寝れない気分のまま白目むいて悪路を揺られてた。

道中、具体的にどこが危険スポットかは教えてもらわなかった(怖くて聞けなかった)けど、街を外れて、いかにもな、道路なんだか藪なんだかわからない、走ってる車の両脇から背の高めな草が窓にピシピシ当たって道の向こうがどうなってるのか伺い知れないような道ではもう、ホントに、山賊とやらが、いつ、どこから飛び出してきてもおかしくなさそうで生きた心地もしなかった。や、大袈裟だけど、脳内的には、大まじめにそんな大袈裟な恐怖の中にいたのである。

その時のワタシは、知人の家に、というコトで、滞在先の詳細すら頓着しないで漫然と連れてってもらい、漫然とお世話になってた。北西部。ラホールからの長距離バスで着いたペシャワールから、更に車で小一時間のパシュトゥン部族の田舎町。街と街を繋ぐ幹線道路脇はアフガン難民の仮住まいが立ち並んでる。

あの頃は世界中の誰もが名前も知らないでいたけど、その後、911で注目を浴びることになったタリバンが、戦闘訓練とかを繰り返してた地域に結構近い場所だったように思う。かといって、それ自体が外国人に脅威、とかではないし、地元民と行動を共にしてるので、無茶ぶりは皆無ではあったんだけどね。都市部より保守的な習慣を逆手に取って、そこに外国人がいると厄介な場所を通過するときは全身隠れる布を頭から被ったり。あ、むしろこれはある種、無茶ぶり…かw

そもそも、パキスタンに行くことにはなったものの、ワタシ、土地にも情勢にも頓着はなかった。なさすぎた。旅と言うより、文字通り「ちょっと友達んチ行ってくらぁ」の長距離版でしかなかったのだ。

あれれ、こんなに長々パキスタンの思い出書くつもりではなかったのだけど。

風変わりなディープな旅をさせてもらったりはしたものの、どの場面でも、ちょっと運が暗転してたら何が起きるかなんてわからなかった。そういったコトを肝に銘じつつ、でも土地の人と上手に触れ合える旅がまた出来たらいいなぁ、と思います。もう無理かな。

なかなか実現しなそうだけど、いつか印度に行くにあたっては、もう歳も歳だし、当たって砕けるような旅にはしないと思います。多分。当たったら即、粉々に砕け散る気がするしw

あぁ、そういえばまさに今日、久しぶりにケララの古いネット友達のワカモノからひょっこりIMが来た。ケララにいつ来るの? まだ? 実はね、国を離れる計画を立ててるんだ、まだすぐじゃあないんだけど、僕がこっちにいる間に来てよね! と言われた。

あぁ、ケララの大自然のエスコートにタイムリミットが…! おカネ貯めなくちゃ! 貯まらない!!

2014/01/13

蒲田を歩く

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昨日は他所向けの文字を書いていたので、こちらは割愛した。今日は起きてぼんやり珈琲飲んだだけ、みたいな状態で「はいはい、今から15分以内に着替えて出かけるぞ!カメラもしょってけ!」と追い立てられたっきり、唐突に脈絡無き蒲田への散歩に出向いた。面白かったけど。
※あっ、写真は全く以て蒲田じゃありません。念のため。
蒲田をまともに歩いたのは、おいらも配偶者も恐らくはじめて。しかし二人ともあの昭和感溢れるカオスな街をいたく気に入ってしまった。もしかしたら、諸々の条件が揃ったなら、移住もあり得る勢い。いやぁ、おいらはまだそこまでには思い切ってないかな。海が遠いし浜はない。それはなぁ…w
なんだろう、商店街があんなに元気よくて、幅を利かせまくってる街って久しぶりに見た。年寄り多めな気もするけど、とにかくヒトも多い。需要と供給のバランスはよさそう。
メインのアーケードから一本逸れた細い道もしっかりアーケード、みたいな、多重商店街があって、しかもどちらも活気がある。更に通りをいくつか越えると別のアーケードがある。スーパーは逆に、大きめなのがひとつだけだったかな。気づいた範囲では。
イマドキの往来、しかもはじっことはいえ、東京都内の往来としては、ここ10年くらいでどこでも殆ど見かけることのなくなったレベルでの路上喫煙率で、ある意味新鮮なくらいだったりもした。
そんな感じなので、ガラ的には、まぁ、お上品タイプではないのだけど、総体的にはそんな街にありがちな、ガラっパチだけど根はよさそげ、な雰囲気を感じる街でした。
蒲田のアーケード群はどことなく、板橋に暮らしていた時に行ったことのある、赤羽周辺の商店街を思い出させる雰囲気だったんだけど、大きく違うのは、赤羽は蒲田とは真逆で、どうも好きになれなかったのですよね。うまく説明出来ないけど、ヒトが恐ろしかった。肌感的に。
赤羽の街に持ってしまったそんな印象は、あくまで個々人にってワケじゃなくて全体的な雰囲気に対しての曖昧な感覚でしかない……筈なのに、あの日の赤羽を思い出そうとすると、もの凄く不愉快そうな顔をしてた、とあるおばちゃんの横顔が即座に頭に浮かぶ。彼女の表情そのものが赤羽の象徴になってしまってる。
あの日の赤羽と今日の蒲田に、実際に明確な差異があるのかどうかはよくわからない。
さて、赤羽は置いといて、蒲田に戻ろう。飲食店も鈴なり。そして異様に安い。しっかりした量の昼定食が500円台という所が結構あった。どうなってるの。実はつい数ヶ月前に、蒲田は羽根付き餃子が有名である、というコトを知ったばかりなのだが、そのせいか中華料理屋は妙に多い。
餃子が目玉になってない中華料理屋も多いのだが、そうなると意外に香港系が多いようだ。中華以外では、何故かタイ料理屋が多い。タイ国旗の色をベースにした看板がそこここで目につく。
今日は取り敢えず、到着してまず餃子。でも、そこの店は微妙に腑に落ちず、日が暮れた頃に、以前行ったことのある評判のよい店で改めて餃子。日に二回も外食でしかも餃子、なんて、なんかヘンといえばヘンだけど、ささやかな贅沢、ちょっと楽しかった。
またカメラ持って散歩に行こう。次回はは是非、タイ料理行脚にしたい。

2014/01/11

習慣と社会復帰

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さて、北方から戻ってきた途端にドタバタと仕事に追われ、お屠蘇気分であるとか社会復帰つら~いとか、なんかそんなコト言えるコト自体が実は贅沢なんじゃないかと思い始めた2014年の序盤であります。

とにかくアレなんですよね、基本的にはリズムが崩れるのにめっぽう弱いのですよ、わたくし。

なので、実は、夏休みであるとか冬休みであるとか、それどころか、連休も大分苦手だったりするのです。

そんなコトをボヤいてるうちに、もう今年初めての連休じゃないですか! 祝日を祝「日」じゃなくて祝「第ウン○曜日」にしたヤツこっちにこい! 「あっ、今年の成人式は水曜日」の何がいけなかったというんだ! 連休明けの火曜日のしわ寄せの方が週ナカ休みより辛いんだよ!

習慣て面白いもので、正月休みでコンスタントに書けなくなったら、帰ってきても数日、書くコトをアタマから避けてしまえてしまった。けどなんとか再開は成りそうだな。

最近は必死にではなくユルユルと継続出来てるものが増えてていいな。なんだろう、それ自体がおいららしくない、とも言えるか。

一時停止はあったものの、書くコトを軽く習慣にしはじめたら、書きたいなぁ、という軽めアイデアがちょこちょこ湧くような感覚が戻ってきた。

実際は、湧くのは昔から湧いてて、でも湧き出た何かを上手に掬う手立てが見つかってなかった、と言った方が正しい。

今もまだまだ手立ては見つかってないのだけれど、「それについて考える」という機会や「思考した内容を反芻する」という機会が増えてきたようなので、今後は大分……いやいや、多少は……うーん、少しは、揮発性の高い思いつきを言語化出来るとよいな、と思ってる。

言語化、は、多分、超理想ではあるけど、無理なら無理でもいいんだ。まずは昔のおいらのように、もうちょっと思考をするようになりたい。

今思うと、若いおいらの思考こねくり回しは、かなりなネガティブマニ車だったと思う。今でも性質は同系なのだが、過去の自分は、その思考に押しつぶされたり溺れたりしがちだったと思う。半分確信犯的に。

今はそういう些末な喜びで中途半端に満足してしまうコトなく、思考をこねくり回す純度を高く出来るるんじゃないかな、と思って(期待して)る。

最近は何故そんなコトを求めてるのだろう、よくわかんないけど、人生の纏め期に差しかかりはじめたのかもしれないね。

2014/01/05

鉛色の水平線

釧路郡釧路町から釧路市への日没間際の海岸線ドライブ。逢魔が時。

陽はもう海岸線にキラキラと落ちて、残滓のような光が空を明るい藍色に染める。

やや雲のある空は、上空に行くほどに藍色を濃くしている。

その藍色の下の海。こんな色と質感の海を見るのはおそらく初めてだ。

鉛色に輝いて滑(ぬめ)ってた。

大抵は、ここの海も、地元の海も、海と空のずっと向こうにある境界は曖昧なコトが多い。夕暮れであっても。

その曖昧さが、普段は好きだったりもするのだが、鉛色に輝く、明確な境界を主張しているこの海の妖艶さといったらなかった。

2014/01/02

人間語

ああ眠たい。

オフシーズンの北方漁師町、漁はオフシーズンだし、そもそも漁師町であっても漁師の家なワケでもないので関係ないと言えば関係ないのですが、今のところ自宅では考えられない早寝早起きの正月を過ごしております。

なのでコレも半分眠くなった頭で書いてるので自分でも訳が分かりませんか。

此方には、今まさに人間との共通語を話すか話さないかという瀬戸際みたいな幼児がいるので、子供を持たない自分にとっては興味深いです。

現状はやだ、とか、ほんの僅かの言葉のみ共通化を果たしているものの、その他の大半の言語は、明らかに本人は意志を持って何かを発し続けてるらしいけれども、人間語としては意味を為してないので、ちょっとインコのお喋りっぽくも思えてきました。

同居しているお祖母ちゃんは、率先して彼の言語を真似て話し合ってたりしてて、彼のよき理解者になってるようです。

見慣れないオトナが暮らしに闖入して来てるため、普段より若干興奮醒めやらない感じのようですが、血縁のおじさんとは、自分の母の顔立ちにどことなく共通点のある事がわかるのか、意外と懐いてるようです。

此方には他に小型の室内犬が、彼の先住者として居るのですが、家庭内の序列で、自分が最後にならないよう、この小型犬をライバル視してるフシもあって、時に自分の優位性とか強さを誇示しようとしたりするのもちょっと面白いですね。

で、これがまた面白いのが、わんこ的には災難でしかなさそうにも思うのですが、時にわんこの方は幼児と遊んでやってる節もあったりなかったりな感じがしてて、いい具合に互いの距離感はある程度出来上がってはいる感じもします。

からだのでっかいおじさんは、即座に自分より序列は上、おいらは恐らく、怖くなさそうな舐めてもいいオトナくらいの認識……かな。

女児には結構人気あるんだけど、男児にはおれの魅力はあまり伝わらない気がします。

ああもうねむいや。寝よう。

2014/01/01

小吉スタート&釧路へ

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去年は夫婦揃って大吉だったのですけどね、今年はおいら小吉、配偶者末吉とふるいません。まぁ、そうは言ってもどうにかこうにか「吉」なので、一生懸命がんがりますw

しかもこんな深夜にカタカタ書いてる暇は今日も実はない!

明日の昼前の便で若干長めに釧路……から更に奥に行った漁師町に向います。長年の町暮らしから文字通りの僻地部の漁師町に移り住んでいる義実家周辺、現実の利便性を度外視すると、かなり素晴らしい環境です。Nature 的に。

冬場もお邪魔したコトはありますが、お正月ははじめてかな。上は雪の少ない釧路にしては結構大雪だった時。

右側にちょっとボケてるのは庭に置いてある椅子とテーブル……の脚が埋まってる状態ですwずっと向こうは北側から臨んだ太平洋の水平線です。この写真の角度では見えないけど、確かこの降り積もった雪には、エゾジカの足跡があったり。車だと真面目に鹿に注意なのですよ、この界隈。

1月はそこまで本格的な寒さではないそう。さっき調べてみても、こちらとの寒暖差5度程度のよう。

ちょっと楽しみです。

釧路と言ったら湿原と、あとは、初夏の霧。以前わざわざその時期を狙って行った時の写真セットは以下。

あぁ、でも今の義実家のある漁師町については改めてゆっくりいつか書きたいな。

さてさて、もう忘れ物はないかな。

漁師町からも更新は淡々としていきたいつもりではいるものの、ちょっとどうなるかは不明。少なくとも時間帯はズレるでしょうねw