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2012/03/20

言葉と選択についての堂々巡り、途中経過

最近暫く考え込んでいる。
いる、というか、最終結論とは思わぬものの、途中経過として一旦考えこみに区切りをつけようという試みがこれ。
後で読み返してみて、うんうん、となるのか、おいおい、となるのかはよくわからないけど。

久しく新しい写真を編集・公開することすら滞っていたけど、ポチポチ再開しはじめた。
8年前は、写真にタイトル+ポエミィな散文を添えていた。6年前は、なんとなくタイトルだけはつけていた。3年くらい前頃には、無根拠ながら明示的にタイトルをつけることにしていた。そして今は、タイトルに意味を持たせるコトすら排除しようかな、と思っている。

反面、
「ステートメントなき写真はこれからはダメだろ」という声も聞いた。なるほどそうかもしれない。いや、安直に納得するな。でもそうかもしれない、違うかもしれない、一考も二考もしていいと思うけど、一理はある気はする。

でも、もし、そうだとして、仮に、
写真とセットでその写真についての付帯情報なり作者の思いなりを見せる必要性というのは別の話なんじゃないかな、なんて思ってるんだけどどうなんだろう。

今のワタシは、
自分の意図が何がしかあったとして、それが上手に伝わらなかったとしても、特に「導い」たりしたいとは思わない。伝わらなかった理由が自分の腕のせいであっても相手の感覚の違いのせいであっても。意図どんぴしゃで伝わる必要って何だろう。相手の心にさざなみが立てられたらそれでいい。

とはいえ確かに、
感覚一辺倒だけで撮ったものでも何かに乗っかれてしまえば評価に至るイマドキのお手軽オンラインパブリッシングはそれはそれで確かに問題を孕んでいるかもしれない。まぁ、ワタシ自身がおもいっきりそのクチだった…いや、未だに、である、し。問題を孕んでいるのか否か正直わからない。新たな一つの潮流になってしまえばそれまで問題だったものすらくるりと問題ではなくなってしまう。まぁ、それは横道逸れ過ぎだけど。

そんなこんなもあって、
最近は選択について試行錯誤を続けている。
やっぱり基本は感覚に、自分の好悪に、まずは正直に、ざっくりと。

しかし、
その先が悩ましい。上のステートメント云々を意識すると、ついうっかり「さて、ナニユエにこの写真?」 という問いに耐えられ「そうな」ものを選択しそうになる。無意識で。それでいいのか?いやらしい。

元々、
性根も審美眼も腐っているらしいので、下らない「(我ながら)よく撮れました」 なだけの写真すらピックアップしてしまう。それも違う。
ここはかなり難しい。無意識の自意識との戦い。
如何に好きで、何故これか、何がよいか。

さて、
そんな感じで言葉の問題が選択の問題になってゆく。

選択し、
きちんと「作る」。撮って出しはしない。他人様が撮って出しをするかしないかはその人それぞれなので意見はないが、自分はここで作るコトが自分の作品としての半分以上を占めてるかもしれないと思っているからきちんと「作る」。極端に派手な加工をするのではないけどきちんと「作る」。

そして、
出す。言葉は必要かもしれないけれど表に出すか否かは、その選択すら含めて作品なのではないのかな。

それでも、
これからは試しに、もしくは恒久的に、それぞれの作品についてのステートメントのようなものはチラ裏的にどこかに留めていってみようと思ってる。
それらはきっと、求められない限りは人の耳目に入ることはない。それでもこの作業は己の何かを磨いてくれるような気がしてる。

そんな時、
写真家と映像作家の言葉の強度の違いについて語っている写真家のような映像作家さんのつぶやきをみかけた。違いの存在にだけ触れた、具体的な優劣も是非もないそのつぶやきは狡くも思えたけど、連続性がなければないほど寧ろ、余計な説明も削がれていかなければ立ち行かなくなるんじゃないかなぁ、と思っている。ワタシは、今は。この映像作家さんは何を意図して違いにだけ触れたのだろう。ワタシとは真逆の何かかもしれない。

何が正解かなんてわからないし、
仮にセオリー通りに動かなければ成功がない、というのであれば成功を目標にして歩くことはないだろう。…成功?それが欲しい物の正体なのか?よくわからない。

【追記】(2012/03/21)
書いて1日経った頃こんな良記事が現れた。
#4と#5あたりが上の堂々巡りの元みたいな感じで、#3あたりは物凄くなるほどで、#2もうむふむ、って感じ。
記事内のリンクもあとで攫おう。